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 ゆきまつ孝太郎活動報告〔無所属〕

名張市議会議員【2期目】 教育民生委員長

2011-10-10 [ Mon ]
テーマ:自殺予防啓発講演会

 今日は、体育の日。元女子シンクロナイズドスイミング日本代表選手武田美保さんの「こころも体も健康に~自分の可能性を信じて~」というテーマでの講演に参加しました。ここで武田さんが言いたかったことを武田美保語録から引用して紹介します。

●武田 美保(たけだ みほ)のプロフィール
 1976年9月13日生まれで、元女子シンクロナイズドスイミング日本代表選手である。シドニーオリンピックとアテネオリンピック (2004年)の銀メダリスト。世界水泳福岡大会金メダリスト。身長165cm、体重54kg。配偶者は三重県知事の鈴木英敬氏。特にアテネ五輪では、立花美哉さんと、シンクロナイズドスイミング競技で銀メダルを獲得。2001年の世界選手権では金メダルを獲得するなど、日本人メダリストの中では飛びぬけた数の5つのメダルを持ち、見事な演技力で常に世界を魅了してきた。
 チーム競技ではチームリーダーに抜擢され、そのリーダシップ力、確かな技術力と豊かな表現力で、雰囲気を盛り上げるムードメーカーとしても活躍する。

●来歴
•京都府京都市生まれ。デュエットでペアを組む立花美哉とともに中学時代から井村雅代が代表を務める井村シンクロクラブに所属。
•1995年(平成7年) 四天王寺高等学校卒業、立命館大学産業社会学部に入学。
•1996年(平成8年) 大学2年で日本代表となり、アトランタ五輪にチームの一員として参加、銅メダルを獲得。
•1999年(平成11年) 立命館大学卒業。
•2000年(平成12年) シドニー五輪で立花とコンビを組み、デュエットおよびチーム種目で銀メダルを獲得。
•2001年(平成13年) 世界水泳福岡大会のデュエットで金メダルを獲得。シンクロ界において日本史上初の優勝を果たし、またこれが自身唯一の金メダル獲得である。
•2004年(平成16年) アテネ五輪に出場するも、またしても銀メダルに終わった。この年に現役引退。芸能活動を開始。
•2005年(平成17年) ミズノと契約し、自らのスイムウエア・ブランド<ルル・ナータ>などを発表。(現在発売停止)
•2006年(平成18年)からマッスルミュージカルに出演。
•2007年(平成19年) この年に開催される歌手・松任谷由実のコンサートツアー「YUMING SPECTACLE SHANGRILA III」に世界水泳メルボルン大会でソロ三連覇を達成した同じ事務所のヴィルジニー・デデューと共に出演。
•2007年9月20日、(当時)通産官僚であった鈴木英敬と入籍。
•2008年(平成20年) 3月に所属事務所から独立。
•現在、夫の政治活動を支えつつ、講演活動や三重県のシンクロクラブで指導を行っている。

●エピソード
•引退後に味の素の「アミノバイタル」CMに出演。
•米国ネバダ州立大学に短期留学して、ピラティスインストラクターの資格も取得。
•五輪での通算5個のメダル獲得は立花美哉と共に日本の女子選手史上最多のメダル獲得数である。(尚、その後2008年北京五輪で女子柔道の谷亮子も五輪で金メダル2個を含む通算5個目となるメダルを獲得している)

<主な戦績>
•アトランタ五輪(1996年)- チーム銅メダル
•世界選手権(1998年) - デュエット・チーム2位
•FINAワールドカップ(1999年) - デュエット・チーム2位
•シドニー五輪(2000年) - デュエット・チーム銀メダル
•世界水泳福岡大会(2001年) - デュエット・チーム金メダル
•アテネ五輪(2004年)デュエット・チーム銀メダル

●受賞
•2000年度JOCスポーツ賞特別功労賞
•2001年度JOCスポーツ賞最優秀賞

●講演会の要旨
1.壁を乗り越える方法
 武田さんが子供のころから養われた独自の理論と、強い信念に基づいて、いかなる壁も乗り越えてこられてきたことがわかりました。人間はもっと弱い人の方が多くて、いささかスーパーウーマンというか、完璧過ぎる印象を持ちました。うまくいく人生とうまくいかない人生、両極端なことがあるとすれば、武田さんはうまくいっている人生ですよかね?」しかし、何の行動も取らないでうまくいくはずはありませんし、武田さんも次のように壁にぶつかりながらも諦めず努力し続けたのです。

 『私は、皆さんが思うほど実は自分でも強いなんて思ったことがありません。「できればさぼりたい」「極力省エネでやろう」という考えがつい浮かんでしまうこともありました。ただ、そこで私はじっとはしていなかったのだと思います。若いながらにも人生のうまくいかない時期を過ごしながら、そのとき「自分は最終的にどんな自分でいたいんやっ?」と常に自問自答をしていました。そして、奥底から出てくるイメージが、私の場合はオリンピックに出場してメダルをとって、史上最高の達成感を感じている姿。そうすると「今のままでいたらこの思いは成就されないだろう。だったらどうにかしてここから動こう。」と、そんな考えにいつも行き着いていたのです。大事な時に、「まあいいや」とか「何とかなる」、で終わらせることは決してしませんでした。

 壁を乗り越える方法を探すのには、とにかく考えるのをやめないことと、行動を取るということが必要です。そして私の場合、「何に変えてもやり遂げたい」と思えるぐらいの現実的かつ具体的な目標を持っていたという重要なことがありました。今までのコラムの中で、幾度となく目標を持つことの大切さを書いてきましたが、目標がリアルだとそれが行動への原動力になります。もしかしたら、これだけ明確な目標をもてた私は、とても幸せだったのかもしれません。しかしまず目標が持てるかどうかで、物事に対する姿勢や関わり方が大きく変わってくるのも事実です。目標やそれに対する思いが行動へと繋がるし、その大きさや強さによって、放棄したり、辞めてしまったり、ということが避けられるとも思います。

 実は、私も引退してから今第二の人生で又目標を探しています。「探す」という行動をしない限り、見つけられないのではないか、と思うからです。「やったか」「やっていないか」これは、どんな状況にあっても当てはまることではないかと思います。

 これまでの成功者といわれる偉大な諸先輩方をとって見ても、例えば松下幸之助さんや本田壮一郎さんなど、経営の神様と言わしめる方々。その哲学や実践されたことは、本や出版物になって多くのビジネスマンのバイブル的存在になっているかと思いますが、その本にも書かれている通り、何の行動や努力もしないでその立場に上り詰める人なんていないことがわかります。傍から見ればきっと超人的な精神力や才能に見えるかもしれませんが、同じ人間なのだから、そんなことは線を引いてみるものでもないと思います。
「やったか やっていないか」です。』

2.母親の話
 『私は今までの人生を振り返った時、と言ってもほぼ選手時代がそれに該当するのですが、同性の先輩である母親の言葉や生き方に多大なる影響を受けていると思います。どうしてもこれは自分の考えを話す時にはずせないことなので、では、母親と自分の目指す女性像をどう重ね合わせて見てきたかということをお話していきましょう。
これまで困難が自分に訪れたその時に、母親はこう接してくれました。
時には豪快に「気にする必要もない」と笑い飛ばしてみせたり、
時には突き放して自分で考えさせたり、時には命懸けで一緒に飛び込んでくれたり。

言葉やその奥のもっと深いところにある愛情に何度も救われました。
それが一つ一つ記憶に刻み込まれています。
もちろん今でも継続されています。

私の年齢がいくらおばさんになろうと親にとって私は永遠に娘であり子供であることに変わりありませんから。

  喜怒哀楽の振り幅を私はこれらの記憶の中から覚えていきました。
嬉しいときの表現、悲しいときの表現。人間としてこの世に生をうけたのですから、思いっきり人間ならではの感情をフルに活かして生きたいと思うのです。この考えも母親譲り。

そしてもう一つ感謝しなければならないのが、親と子のコミュニケーションの時間を大切にしてくれたことです。

私はこの会話の中からいろんな気づきをさせてもらいました。
相手に何かを伝えるときには、まず自分の頭の中が整理されていることが前提であること。
伝えたいことを強調したいのであれば、表現力が豊かであること。
それにはボキャブラリーの豊富さとテンポと抑揚などが関わってくるのではないかと思います。

今現在、自分がこれについてできているなんてこれっぽっちも思いませんが、その代わり伝えたい気持ちを下手なりにストレートに表そうとする度胸は備わったのではないかと思います。

そしてなによりも自分の力になってくれたのがイメージ脳力。
母親の質問に対して自分が答えを出すときに、私は必ずそれを自分の頭の中にあるテレビ画面のようなものに一回イメージを映し出し確認してから話しました。これが結局その日あった出来事を追体験したかのように記憶に焼きつけていく独自の方法になっていったのです。

競技を小学2年生から始めましたが、この習慣が私を助け、私の強みになりました。
昨日よかったこと、だめだったことが記憶に残ってくれているとそれをベースに今日を少しずつでも上乗せして過ごしていけました。

前向きな気持ちというものは、選手の頃だけではなく選手を引退した今でも必要なことです。
私がいつしか母になり、未来の自分の子供にこんな風に接していけたらと思います。
この年になっても、いつまでも口うるさく怒られてしまう私。
時々は「はぁ。成長がないというか、情けないというか・・・」と落ち込むこともありますが、社会に出て見聞を広げた先に見えてきたものを、一緒にまた共有して一生親子で学びを続けようと思います。

学びは人生をよりさせ、女性が美しく生きていく秘訣ではないでしょうか?

そして、肉体が続く限りサークルを親、子、孫と繋げていきたいですね。
 自分の育ってきた環境は、一言で言うと「ここの家庭に自分が生まれてこられてよかった」と心底思える場所だと思います。なんだか結婚式の日に読む花嫁の手紙みたいな表現ですが・・・・。

母親にスポットを当てましたが、私は優しくて口下手な父と、一生懸命で実直、また嘘がない2人の兄の調和がそこにあったから、何があっても頑張れたのだと思います。

これは何も私の家庭だけのお話ではありません。
どの家庭でもそれぞれに調和や表現方法があり、それを背景に一人の子供が人として形成されていくものだと思います。

私は女性として、母のようにその根幹となる部分を大切にできる人になりたいと思っています。
でもまだまだ・・・まだまだ自分のことで精一杯なので、成長中です(笑)。』

3.オリンピックの話
 『シンクロを始めて以来、将来の夢は五輪メダリストで「選手とは、4年に一度しかないオリンピックを目指すべきで、その舞台に立ち、全ての能力を出し切るべく取り組むことこそが本分。」と本気で思っていました。現実的に見てみると、オリンピックから次のオリンピックまでの4年という時は、それはそれは長く、濃く、正直、辛いことの方が多い。「やっていけるのだろうか」と自問自答ばかりの毎日で、唯一その思いが報われるのは本番で本領が発揮できたときだけという限定つき…。

 それでも根本に、「シンクロという競技が好き」というものがあったので、時間と労力を費やす価値のあるものだと信じていられました。また試合後の達成感や充実感は何物にも変え難く、人生における最高の感動と言えるものでした。しかし感動が大きければ大きいほど、そのあとの反動が厄介なもの。「これからまた同じこと、それ以上になるようなことをもう一巡しなければいけないのか・・・。」と思うと愕然としてしまって、そのあまりにも過酷な4年という月日に再度足を踏み出す気力がなかなか湧いてきませんでした。だから、とにかく気持ちの整理をつけるために、自分を逆さまにしてぶんぶん振っても何も落ちてくるものがないぐらい空っぽになるところまで完全リセットをし、4年間を過ごせるだけの気力の“泉”みたいなものを満タンにしようと考えをめぐらせました。自分を見つめ直す作業はそのためにとても必要なことだったのです。

 4年間を過ごして自分を見つめ直す時期に入り、今感じていることは「私、やっとセカンドキャリアに対して真正面に向き合っているかもしれない」ということです。これを聞いて「当たり前じゃない。4年も経ってるのに、この人、何を今更言ってるの?」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、私にとっては実はとても大きな変化で、ようやく焦りがなくなって、着実な手ごたえを感じながら一歩ずつといった様子で進んでいる気がするのです。昔に比べて物事を考えるスパンが長期的になったとも言えます。
 以前なら、オリンピックの前に毎年設定する目標の大会があり、ランキングも成果も全て1年以内に数字で表れるので、切られた期限が短い分、わき目もふらず全力疾走でした。現在は全く違うペースで、落ち着いた心境の中で「セカンドキャリアで自分は何ができるのか?」「自分がやりたいことと、社会から求められているものはどこまで一致しているのか?」「それをどう表現していくべきか?」ということを、ああでもないこうでもないと毎日考えています。これからの人生を考えることは“悩む”ということではなく、“取り組むべき面白いこと”というスタンスでいます。また大きな環境の変化もあり、昨年結婚をしましたが、結婚は自分の人生とそれまで他人だった人との人生が重なり合うということだと捉えています。人生設計を一人単位で考えていたところに、重なり合う人が現れ、これまでになかった将来を想像するようになりました。

 以前の焦りを持った自分には考えられなかったことです。達成できていない目標を抱えていても、「今はそのタイミングではないんだ。機が熟すまで私は待てる。そして機が訪れたら必ず自分の経験の中で蓄積してきたものを思い切り表現して達成しよう」という考えになれたのです。

 今は、その年齢や時期にしか味わえない経験や、その都度、その時々で色々な感情を持ち、自分にとって心地よい歩みのペースを感じながら、今はそれを探って楽しもうと思っています。もちろん毎日いいことばかりが起こる訳ではありませんが、困難の乗り越え方も、環境、年齢、心境によって方法は変わっていくはずなので、「今の自分ってこんなことを感じているんだ」なんていうものもしっかりと噛み締めていきたいです。
 今だからこその人生を噛み締める、そんな発想を持てると、逃げ出したくなるようなことからも「今だからできる経験だ」と逃げずに受け入れられたり、受け入れることによって新しい自分の気づきになったり、また強くなれたりして、その経験値が年相応の輝きになって表れてくるのではないかと思っています。

アスリートのセカンドキャリアへの心の切り替えは、非常に難しいと聞きます。今回は思いがけずに、自分をさらけ出してお話をする展開になってしまいましたが、これが今の素直な気持ちです。』

4.立花さんと井村コーチのお話
 『立花美哉さんと私の出会いは、お互いが小学生の頃。美哉さん(以下、美哉さん)が小学4年で私が小学2年でした。年下なのですが私の方が早くシンクロを始めており、美哉さんがその3ヶ月後にキャリアのスタートを切りました。
 思い返すと、入った当時から今の雛形ができていたように思います。片方は手足がひょろーっと長く、それを持て余すかのような動き。片方はものすごく小さくて、カチカチで出来上がってしまっている動き。誰と言わなくても、どっちがどうだかわかりますよね?

 当然、あまりにも身長もタイプも違うので、デュエットを組むことはあり得ない二人とされていました。月日が流れること13年。その状況が一変したのが、97年の国際派遣選手選考会です。
 97年の選考会当日、私は絶好調でした。その日"水を掴む"という感覚がとても敏感に感じることができ、何をしても体が軽くて、倒立姿勢で回転する規定をするときなどは、中心軸がおもしろい程とれるのです。
 何も考えなくても勝手にそうなってくれる感じです。そしてその結果、選考会2位での通過となり、技術面が優れている者同士(選考会の順位の1位、2位)でのデュエットが誕生したのです。しかし、あり得ないデュエットの誕生です。

  それから、井村コーチ、美哉さん、そして私の3人4脚が始まった訳ですが、その前に、なぜこのときこんなに調子がよかったのか・・・?
 これまで何度も言っているように、美哉さんと私のデュエットはあり得ないと自分自身もそう思っていました。ですが、シンクロを続ける限り、やはり上に行きたいと思うのは当然ですし、いつかはチーム要員としてだけではなく個人種目での海外遠征やオリンピックに出場したいという夢もありました。今思うと変な心境です。
 デュエットを組める訳がないと思いながら、自分も含めて皆の思い込みを変えてみたいという願望もあったのです。「デュエットパートナーにならなければいけない」というプレッシャーは一切無く、「私、頑張ったら何か起こるかな?」という楽しみのようなドキドキ感がその時の心境でした。
私は試合を楽しんでいました。

 邪念が無い分、精神的にもとても落ち着いた状態で、その安定は前日までの日本選手権にも良い影響をもたらしてくれていたので、選考会当日は勢いに乗るだけ。とてつもなく自分に集中できていました。
 デュエットパートナーとしての自分がいました。「何かが変わるかな?」だけだった思いが現実に変わってしまった時、私は急に不安に襲われました。今までの取り組み方や考え方では到底つとまらない大役です。
 組ませてもらうからには、自分なりに覚悟を決めました。しごかれて、怒られて、色々なことが起こるだろうと。今でもその時の心境を鮮明に思い出すことができますが、そんな私の覚悟のレベルなどあっさり通り越され、現実のレベルを装置で計れるとしたら、針は振り切りいっぱい!?になっていたと思います。

 毎日がまさにダメ出しの連続。身長の差、タイプの差、そしてなにより孤独でした。自分で這い上がってくるしかないのです。日本の代表として出場するのですから当然と言えば当然ですが、今までのような「一緒に頑張ろうね」という言葉も雰囲気も一切ありません。美哉さんとデュエットとして機能するためには、上手くなることだけを見つめていかなければ脱落する、と思いました。

個を高める。切磋琢磨する。
これは、それから二人独特のスタンスとなっていくことになります。

 デュエットとして始めての遠征が近づいても、私は自信を持てないままでした。試合に出る前にこれほど自信の無かったことはありません。「合わせなければ」「怒られないように」そんなことばかり考えて、全く自分の泳ぎができない。自分が自分でない。直前の練習でも、自分を奥に潜めて誰かが演技している感じです。何を言われても傷つかないように、殻に閉じこもっていました。

 自分でもどう泳ぎ切ったのかよく覚えていない、気持ち的にはこれまでの中で最悪の大会を終えました。結果はデュエット・チーム共に日本最高位タイの2位で、ほっと胸をなで下ろす私でしたが、井村コーチはその内容を許すはずがありません。ぴしゃっと「今回のデュエットはあなたでなくてもよかった」と言われました。選手として前向きな心を持っていなかったことを指摘されていたのだと思います。

自分の至らなさをわかってはいたつもりですが、やはりこの言葉はこたえました。井村コーチに二度とこの言葉を言わせてしまう自分であってはいけないと思いました。
 変った自分を井村コーチに認めてもらうには、まず何ができるのかを考えました。閉じこもった自分を解放して、コーチの本当の言葉に耳を傾けること。注意を受けることが、自分の人格を否定するものではないことを理解すること、身長差をカバーする高さや技術をみにつけること等々。少しずつマイナーチェンジしようと葛藤しながら、2年、そして3年が過ぎていきました。

 2000年、シドニーオリンピックはデュエットが機能し始めた大会だと位置づけられると思います。まだ完全に自分の泳ぎをすることができていませんでしたが、お互いのくせがわかり、色んなことに慣れてきていました。それまで水を開けられていたロシアのすぐ後ろについて息を吹きかけるところまできている実感がありました。
 そして、2001年福岡世界選手権。ようやく私はパートナーとして自分の役割を持つことができました。今まで取り組んできたプログラムの中で、最も"演じる"ことを全面に出した「パントマイム」に出会い、ようやく自分が泳いでいるという自覚を持って舞台に立ち、心からシンクロが楽しいと思うことができました。

 あの時の歓声や高揚感は忘れられません。
5年経って「やっと・・・」。
でも、私にとって素晴らしい経験の時でした。』

1時間30分があっという間に来た感じです。さすがにオリンピック選手の話は感動でした。

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プロフィール

ゆきまつ

Author:ゆきまつ
幸松(ゆきまつ) 
   孝太郎(こうたろう) 
65歳
住所:名張市百合が丘西2ー86
職業:名張市議会議員(無所属)
家族:妻、二男一女の5人家族
座右の銘:
”Mastery for Service
(奉仕のための練達)”
「”社会の中で輝いた生き方”をするために!」

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