ゆきまつ孝太郎活動報告〔無所属〕

名張市議会議員【2期目】 教育民生委員長

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2012-11-01 [ Thu ]
テーマ:民主党の国家戦略室

高田英樹氏の書き下ろし現代ビジネスの記事「3年前に民主党政権が発足したとき、政治主導の理想を実現すべくスタートした首相直属の「国家戦略室」。若い優秀な人材が中枢から国を動かす、従来の霞ヶ関では考えられなかった画期的な組織と大きな期待を集めた。その理想の司令塔はなぜ十分に機能しなかったのか。メディアの評判はなぜ芳しくなかったのか。中心スタッフに抜擢された若手財務官僚が、その挑戦と苦闘の軌跡を語る。」から紹介したい。
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●政権交代の「成果」と「限界」とは何だったのか
 2009年の政権交代から約3年が経った。
 自民党から民主党への政権交代は、日本の政治・行政のあり方を根底から問い直す出来事であったことは間違いない。だが、今や当初の熱気は薄れ、政権交代により「変わった」ことよりも、「変わっていない」ことが強調されることが多い。それが、新たな「第三極」への期待にもつながっている。
 しかし、その背景にある、政治・行政のシステムへの理解が深まらないまま、単にプレイヤーを交代させるだけでは、同じような試行錯誤の繰り返しに終わる可能性が高い。政権交代の意義をある程度冷静に振り返ることができるようになった今、その実態を客観的に評価・分析することが、今後につながる一歩となるのではないか。
 1995年の入省以来、財務省に勤務してきた私は、民主党政権発足後、新たに設置された国家戦略室の最初のスタッフとして登用され、以後2年間強、その立ち上げと運営に携わってきた。
 本稿では、「政治主導」の司令塔を目指した国家戦略室の経験を振り返りながら、政権交代の成果と限界について考えてみたい。

●菅直人氏からの電話 ~国家戦略室最初のスタッフに指名
 2009年9月16日、歴史的な政権交代を果たした民主党政権が正式に発足した。霞ヶ関は、未知の世界を前にして、緊張感に包まれていた。
 そうした中、私のオフィスの電話が鳴り響いた。電話の主は、新政権の副総理兼国家戦略担当大臣に任命された、菅直人議員だった。自分のスタッフとして手伝ってくれないか、というのがその電話の内容だった。
 この突然の呼び出しには若干の経緯がある。09年7月21日、時の麻生総理は衆議院を解散した。その翌日、私は、当時民主党代表代行であった菅直人議員の事務所を訪れた。英国の行政や予算制度について説明してほしいとの依頼があったためだ。
 私は03年から06年までの3年間、英国の財務省に、派遣職員として出向していた。同じ「財務省」という機能を営む組織であっても、そこで働く人々や、仕事の仕方には、実に大きな違いがある。そんな英国財務省への出向は、私にとってまさに目から鱗が落ちる経験であり、日本で知っている官庁のあり方が唯一無二のものではないことを気付かせてくれるものだった。
 私は帰国後、そうした体験を「英国財務省レポート」としてまとめていたが、そのレポートが、英国をモデルに政治・行政の改革を目指そうとしていた菅議員の目に留まったのである。
 レポートは全体で100ページ近い大部であるが、私が訪ねたとき、菅議員は既にその紙の束を手に持っており、ところどころにマーカーを塗って熟読しているようだった。菅議員からも様々な質問がなされ、結局、1時間近くにわたって、私は詳細に英国の様子を説明することになったのである。
 菅議員が特に関心を持っていたのは、英国の官庁では官民の垣根を越えて多様な人材が働き、仕事を短時間で合理的に進めているなどの、業務のあり方だった。彼はこうした英国モデルを参考に「霞ヶ関の新しいビジネスモデル」と銘打つ改革を提案していた。
 また菅議員は、英国の予算制度にも強い関心を示していた。そして、自らの下で立ち上げる国家戦略室の最初の任務として、予算制度改革に取り組むこととし、私をそのためのスタッフとして指名したのである。

●わずか3週間で国の財政の「骨格」を作る
 09年9月28日、私は国家戦略室最初のスタッフとなるべく人事異動の発令を受けたが、当初は国家戦略室のオフィスも物理的に存在せず、どこへ出頭すればよいのかも分からない有様だった。
 しかしこの日、早くも国家戦略室が主催する「予算編成のあり方に関する検討会」の第1回会合が開催された。菅直人国家戦略担当大臣、古川元久内閣府副大臣(国家戦略室長)、津村啓介政務官は、「行政の根幹は予算であり、予算を変えることが、行政を変える第一歩になる」との思いから、予算制度改革を最初の課題としていた。
 国家戦略室は、それからわずか3週間程度の間に集中的な検討を行い、09年10月19日に「論点整理」を公表した。
 そこには、「予算編成に関する閣僚委員会」を中心としてトップダウンで予算の方向性を決めることや、英国の「複数年度予算」を参考として、3年間の予算の大枠を定める「中期財政フレーム」の導入、中長期的な財政規律を定める「財政運営戦略」の策定など、民主党政権における財政運営の新たな枠組みの骨格が盛り込まれたのである。

●若手中心でフラット型の、霞ヶ関の新しい組織モデル
 国家戦略室のスタッフは徐々に増え、09年末の時点では20名程度になっていた。
 菅大臣と古川室長の意向により、人事には明確な方針が貫かれていた。まず、スタッフの約半分が霞ヶ関の各省から、約半分が民間から採用され、官民の混成チームとなった。メンバーは基本的に、出身組織の推薦ではなく、菅大臣または古川室長が自ら選び、あるいは両氏の信頼を受けたスタッフの推薦を通じて、「一本釣り」で抜擢して、必ず、最終的に両氏が面接をした上で採用を決定することになっていた。
 また、国家戦略室には、いわゆる「幹部」的な重鎮や管理職的なポストを置かず、30代から40代前半ぐらいの実務者クラスが中心となった。全員が自分で動き、ペーパーを書くことができる、機動力のある集団であった。
 比較的年長のスタッフが、一応の取りまとめ役となったが、基本的に皆が横並びで、政務三役に直接仕える形となっていた。ピラミッド型の重い役所組織ではなく、スリムかつフラットな組織を志向していた。
 こうした国家戦略室の組織自体が、霞ヶ関の「新しいモデル」であったともいえる。私や同僚たちのような「若手」に属する人間が国の中枢で働き、ダイレクトに大臣などに意見を具申できるという状況が実現したのだった。
 これは、年功序列を基本とする霞ヶ関、ひいては日本社会の構造に新風を吹き込むように思われ、周囲、特に若い世代の人々から期待の声をいただくことも多かった。

●「司令塔」の機能を備えていく
 国家戦略室は、主に財政と成長戦略を業務の柱としていた。財政については、予算制度改革の議論を発展させ、10年6月には、「2020年度までに基礎的財政収支(プライマリー・バランス)を黒字化」するなどの、新たな財政健全化目標を盛り込んだ「財政運営戦略」を策定し、その中で、3年分の予算の大枠を決める「中期財政フレーム」を導入した。
 政権交代後、日本は先進国の中でほぼ唯一、財政健全化計画を持たない国となっていたが、この「財政運営戦略」により、初めて民主党政権下で財政健全化の枠組みが定められたことの意味は大きい。この枠組みは、後に「社会保障・税一体改革」において、消費税率を10%まで引き上げる方針を定める前提となった。
 また、成長戦略については、09年末頃から集中的な検討を初め、10年6月には、20年度までの10年間の平均で、名目3%、実質2%の成長を目指す「新成長戦略」を策定した。
これには、固定価格買取制度による再生可能エネルギー普及などの環境・エネルギー分野(グリーン・イノベーション)や、健康分野(ライフ・イノベーション)といった、いくつかの戦略分野における新たな需要と雇用の創出策が盛り込まれている。「新成長戦略」はその後、震災を受けて一部を再構成しながらも、その根幹は維持され、12年7月の「日本再生戦略」へと発展している。
 このように国家戦略室は、10年6月、民主党政権の経済・財政運営の柱となる二つの戦略を策定し、内閣の「司令塔」としての機能を徐々に備えつつあった。その直前、内閣総理大臣に就任した菅直人氏は、外交デビューとなるトロントのG20サミットにおいてこれらの戦略を披露し、国際社会からの支持を受けたのである。
なぜ「メディア受け」しなかったのか
 しかし、こうした成果を着実に挙げてきたにも関わらず、国家戦略室は発足当初から、メディアでの評判が芳しくなかった。
 まず指摘されたのは、組織としての立ち上がりの遅さである。前述のような採用方針の下、スタッフは菅大臣・古川室長が吟味し、官民のバランスをとりながら採用する方針を守ったため、1週間に1人~2人程度のペースでしか増えていかなかった。これは、発足当初から事務局に数十名の官僚スタッフを採用し、急ピッチで「事業仕分け」の作業を進めた行政刷新会議事務局と対照的である。
 また、国家戦略室が会議体ではなく、通常の事務組織だったことも、メディア受けしなかった大きな要因である。国家戦略室はしばしば経済財政諮問会議と比較されるが、諮問会議のような会議体であれば、そこで何が議論されているかが分かりやすく、総理や閣僚が集まることによる劇場型効果も高い。そして何より、記者にとって記事にしやすい。
 しかし、国家戦略室はあくまで、通常の課や局と同様の事務組織であり、そこで日々、企画立案することが任務であった。様々な重要政策を立案してはいるものの、そのアウトプットは、閣議などにおいて「政府」の決定となるものであり、国家戦略室の名前が前面に出てくることはない。
 もちろん、大事なのは、「どう報じられるか」ではなく「何をするか」である。しかし、国家戦略室のような政権のシンボル的な組織にとっては、世間で存在感を発揮すること自体が任務の一環という面もある。
 後に野田政権において、国家戦略室を事務局とする「国家戦略会議」が設置されたが、初期の段階からこうした会議が立ち上げられていたならば、国家戦略室の認知度はより高いものになっていたかもしれない。
政権与党は本当に「司令塔」を欲していたのか
 国家戦略室は、前述の「財政運営戦略」や「新成長戦略」をまとめるなど、世間で一般に知られる以上に、実際には多くの業績を挙げてきたのである。しかし、「『司令塔』として十分に機能していない」と評価されることが多かった。それはなぜか。
 国家戦略室を「国家戦略局」に昇格させる「政治主導確立法案」が成立せず、法的根拠が与えられていないことがその原因だ、と言われることが多いが、私の見方は違う。実際に官僚が業務を行う際には、いちいち組織の設置法上の根拠を参照するわけではない。また、法的根拠によって組織の強弱が決まるというものでもない。
 重要なのは、総理を初めとする政権中枢が、その組織に実際上、どの程度の重きを置くかである。経済財政諮問会議には、確かに法律上の根拠規定があったが、法律上の任務は「調査・審議」であり、実は、決定や調整を行う権限はなかった。だが、小泉政権下で「司令塔」としての存在感を発揮したのは、当時の小泉総理が、この会議を総理主導の道具として徹底的に活用したからに他ならない。
「政治主導確立法案」が成立しなかったという事実は、むしろ、政権与党自体に「国家戦略局」への熱意が十分でなかったという、より本質的な問題のあらわれと見るべきではないだろうか。そもそも、「司令塔」なるものを本当に政権与党が欲していたのかは疑問だ。
 政治家は、一人一人が選挙民を背景にした一国一城の主であり、それぞれの考え方と利害関係を持っている。政党という組織は、企業や官庁のように上位下達で動くわけではない。政府の中央に作った「司令塔」の方針に従うということ自体、なじみにくい面があるのではないか。

●「政治主導」の混乱で薄れていった国家戦略室の役割
 民主党政権は「政治主導」をキーワードとし、国家戦略室をそのための司令塔としようとした。しかし、この「政治主導」という概念自体について共通の認識がなかったことに、大きな限界があった。
「政治主導」とは、誰が「主導」することだろうか。単に「政治家」が行政を主導することを指すのであれば、与党の族議員が各省に強い影響力を及ぼす伝統的な日本の行政は、ある意味で「政治主導」だったといえる。
 しかしこれは、憲法上、行政権は内閣に属するとされているにもかかわらず、行政の意思決定が内閣と与党の間で実質的に二元化している状況に他ならない。さらに、内閣(総理・閣僚)と与党の間を調整する役割を官僚が担うことにより、行政権が実質的に内閣・与党・官僚の間で三元化する。
 こうした状況を改めて、議院内閣制が予定する行政の「内閣主導」、さらにいえば「総理を中心とする内閣主導」を実現することが、「政治主導」の本来の意義というべきだ。民主党がマニフェストで「政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ」とし、そのための道具として、総理直属の国家戦略局を設置するとしていたのは、本来、この「総理を中心とした内閣主導」を志向していたものといえよう。
 しかし、このような「政治主導」の概念は、政権与党のメンバーに実際に浸透していたわけではなかった。政権交代後、各省における政務三役の存在感が飛躍的に高まったのは目に見える変化であったが、必ずしも、政務三役が内閣全体の方針に従って一体的に動いているとはいえない事態も生じた。
 さらに、「行政の意思決定の内閣への一元化」という方針自体、共有されていなかった。政権交代の直後、党の政策調査会を廃止するというドラスティックな措置により、形の上では「内閣への一元化」が実現したが、実態としては、党の幹事長室が内閣を超える権威を持っていたことはよく知られている。
 その後、政策調査会は復活し、野田政権では「事前審査権」が与えられ、自民党政権時代と同様に、党は政府と対等以上の力を持つに至った。
 こうした内閣と党の二元体制の下では、「政治主導」についても、誰が「主導」するのかが曖昧になる。そして、省庁と党の間の調整が政策形成の中心となれば、政府内部の「司令塔」たる国家戦略室の役割は、相対的に薄れていかざるをえない。

●国家戦略室の力は、政権の勢いと連動していた
 10年7月、民主党の参院選敗北によって「ねじれ国会」が現出し、政権は不安定化する。その後、菅総理は国家戦略室に、総理直属のスタッフとして様々な情報提供・提言を行う、「総理補佐機能」を持たせた。これは、菅総理がもともと国家戦略室のイメージとして考えていた、英国首相官邸の「ポリシー・ユニット」に近いものだ。
 私もそのチームの一員として、翌11年8月の菅政権退陣まで勤務した。こうしたチームが存在したことはあまり知られていないが、他国に比べても意外なほど手薄な、日本の総理自身のスタッフ機能を強化する試みとして、意義を有するのではないか。
 その後も国家戦略室は、TPPや、震災後はエネルギー政策など、その時々に応じて、政権の重要政策に携わってきた。しかし、良くも悪くも、国家戦略室の「力」は、政権の「勢い」と連動していたように思われる。
 今後、選挙などを経て政権の枠組みが変わっていっても、強力な「司令塔」を作ろうとする構想は繰り返し現れるだろう。私が2年間、その一員として勤務した国家戦略室の挑戦と経験が、いかなる形であれ、日本の統治機構の改善につながることを望みたい。
 なお、本稿では、私の経験と考察のごく一部を紹介するにとどまるが、興味のある方は、私のウェブサイトに掲載した論考「国家戦略室の挑戦 ~政権交代の成果と課題~」を参照されたい。


※本稿は筆者の個人的な見解であり、筆者の関係する組織の見解を反映するものではありません。
高田英樹 (たかだ・ひでき)
1972年東京都出身。95年、東京大学法学部卒業後、大蔵省(現財務省)に入省。97年から99年まで英国ケンブリッジ及びロンドンに留学。2003年から06年まで、派遣職員として英国財務省において勤務。09年9月、政権交代後設置された内閣官房国家戦略室の最初のスタッフとして登用される。11年10月まで同室で勤務した後、財務省に復帰。ケンブリッジ大学法律学修士、ロンドン大学経営学修士。
ホームページ: http://www.geocities.jp/weathercock8926/
ブログ: http://plaza.rakuten.co.jp/takadahmt/


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プロフィール

ゆきまつ

Author:ゆきまつ
幸松(ゆきまつ) 
   孝太郎(こうたろう) 
65歳
住所:名張市百合が丘西2ー86
職業:名張市議会議員(無所属)
家族:妻、二男一女の5人家族
座右の銘:
”Mastery for Service
(奉仕のための練達)”
「”社会の中で輝いた生き方”をするために!」

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